モリとドッジ
講演会等で「森がどうしてドッジボールと関わったのか」という内容を文章化したものです。
第2部をお読みになりたい方は、一般財団法人日本ドッジボール協会より、テキストをご購入ください。
なお、この文章は2009年現在のものです。
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FEEL THINK ACTION "すべてはオトナになるために" より一部抜粋
私たちが伝えるべきこと
第一部「ルールに込めた理念」
第一部では、主にドッジボールの統一ルール作成に至る経緯と、ルールに込めた理念についてお話をしていきます。
子どもたちが成長し、やがて社会に出たとき、人として知っておかねばならないことを、ドッジを通じて学んでほしいのです。
1.キッカケは漫画
なぜ、僕のような職業の人間がドッジというか、こういう活動に関わったかというと、キッカケは漫画でした。出版社に知り合いがおりまして。後に協会設立の発起人のひとりになるんですが、その彼から「新規の漫画を連載したいんだけど、原作を書いてくれない?」と、頼まれました。雑誌の読者は主に小学生。で、その題材がドッジ。
平成になったばかりの頃でしたかね、そのときは僕自身「えっ、ドッジボールってまだやってるの?」っていうくらいの感覚でした。
ところが、小学生に休み時間にやる遊びランキングのアンケートを取ると、男女共にベスト3に入る結果が毎年出るそうで。
「へぇ~すごいんだな」って、ちょっと興味はわきましたが...。
ただ、みなさんも学校の休み時間とか放課後にやっていたドッジって、勝手に自分たちで線を引いて始めたと思うんですよ。人数も適当だったし。僕もそういう経験しかなかったので、担当者に「きっと正式なルールがどこかにあるハズだし、文部省あたりにあたってちょっと調べてくれない?」と、頼んだんです。なぜなら、ルールがないと物語が書けないんですよ。ルールという制約があるから、その中で劇的な場面も書ける訳で、しかも一応、万人が知っていなければならない。例えば野球。東京は3アウト、大阪は2アウトでチェンジなんてバラバラのルールじゃ、物語の展開は考えられません。
それから調べてもらった結果次第で、原作、つまり脚本の仕事を受けるかどうか決めようと思っていたんですね。作詞の仕事が忙しかったので、面倒になるなら断りたい気持ちもあったので...。
2.ルールがいっぱい
しばらく経った頃、担当者から電話がかかってきて「正式なルールがないよ」という報告。「え?じゃあ、我々がやっていたのは何?」っていうことで、色々調べてみると、地域の数、学校の数、大げさに言うと、それくらいローカルルールがあったんです。勿論、あちこちで異なったルールがあることは知っていましたが、まさか統一ルールがないとは。
その理由は、後で調べて分かったことなんですが、ドッジの歴史に関係があるんです。明治後期に、ドイツの「ヘッズベル」という室内競技を、当時の教育視察団が日本に持ち帰ったんです。富国強兵論という「国を強くして豊かにしよう」っていう政策があった時代です。つまり、戦争に向かっている時期で、この競技が、日本でいうところの雪合戦のように、人の気持ちを鼓舞させるのに都合がいいと考えたようです。ま、確かに、人が的になる訳ですから。でも、ちょっと問題アリの発想ですね。
ところが、日本に持ち帰ったのはいいんですが、野放しにしたものだから、地方に広まる過程でローカルルールがどんどんできてしまった。これが、ルールがたくさんある原因です。
具体的な例をあげれば「顔面セーフ」や「命あり」とか、そういうルールがいっぱい。外野エリアもバックライン後方だけや、内野をぐるっと囲んであるものとか、まちまち。コートも丸だったり四角だったりするんです。
「これじゃ、原作書けないね」と言うと、担当者も食い下がってですね。「どっちにしろ、雑誌としても販売促進でイベント大会とかやるつもりだったし、ね、森ちゃん、ルール作ってよ」と、簡単に言うんですよ。とりあえず、つきあいもあるので、渋々引き受けました。この時点で、ルール作りは原作を書くにあたって、どうしても必要な作業になってしまった訳です。
3.テーマを探そう
渋々引き受けたものの、どうせルールを作るなら、何か自分なりのテーマを持ちたいなと思ったんです。これは、いつも作詞や小説、企画なんかを考えるときと一緒。
それと、作家などという職業は、日頃いい加減な生活をしていますし、僕自身、根がぐうたらなもんですから、これではイカンという反省と、一応スポーツのルールですからね、ちょっと真面目に取り組むのも悪くないかと思った訳です。
テーマを探すときは、経験上、世の中の動きを観察するといいんです。
で、テレビを見ていたら、ある駅で起きた事件のニュースをやっていて。どういう事件だったかというと、ある人が、駅前でたむろして通行の邪魔になる若い人たちを叱ったんですね。そしたら鉄パイプで殴られて、大怪我だったか死亡してしまったのか、ちょっと記憶が定かじゃないんですが、とにかく、若者が逆ギレして起こした事件だったんです。
こういう言い方をすると誤解を招くかもしれませんが、普通、悪事を働くのであれば見えない場所、夜道とかで襲うっていうのが、昔からのオーソドックスなパターンのハズです。ところが、白昼堂々、みんなの見ている前で殴る。当然すぐバレる訳で、逮捕され罰を受けるってことですね。勿論、隠れてやっても、いずれは見つかることなんですが、あまりにも短絡的で、はっきり言えば、バカ過ぎてあきれました。
ちょうど70年代後半から80年代、それこそ金八先生じゃないですが「荒れる中学」「校内暴力」とか「いじめ」というようなニュースが多くなりました。でもそれは、まだ僕には理解はできたんです。まぁ、若いときには、社会や大人への反発心もあって、ルールを無視してしまうような場合もあります。また、子どもにまで、ストレスが溜まる社会環境になってしまったことも原因のひとつでしょうから。でも、その頃は、心のどこかに悪いことをしたという自覚症状があったと思うんですね。つまり、悪ぶっていた。悪ぶるならまだいいです。
ところが80年代の後半になってくると、突然キレるという事件が頻発。それこそ「空が青かったからムシャクシャして人を刺した」というような考えられない事件が起きるようになったんですね。いくらストレスに蝕まれた社会とはいえ、理不尽にも程がある。
そこで疑問に思ったんです。これからの長い人生を完全に狂わしてしまうのに、この子たちは、どうして簡単な損得勘定もできないんだろう?いいや、もしかしたら世の中にルールというものがあること自体、知らないんじゃないか?何が悪いことなのか自体が分からないのだから、指摘しても無理。反省する基準がない。なんで罰を受けなきゃならないんだと平然としている。これは恐ろしい世の中になってしまった、と思ったんです。これじゃ、いつ何時、僕も理不尽な事件に巻き込まれるかもしれないなと。もし仮に刺されるとしても、酷い恨みをかっていたのなら、一応納得もできるでしょうが、見ず知らずの人間に、しかも「空が青かったから」で刺されちゃうのは、絶対にイヤだな。ま、いずれにしても、刺されるのはイヤですけど。
4.ルールは我慢の集約
それじゃあ、ルールって一体何なんだ?
絶対的な王様か、ひとりきりで生きているなら不要でも、社会とか、集団で生きていくためには必要なんでしょうね。仕方ないんです、無人島で生きている訳じゃないので。
僕の考えはこうです。ルールとは、最低限、みんなでこれくらいは我慢しましょうよ、という集約なのではないかということ。
例えば赤信号。みんなが、ルールもへったくれもなくて「俺様は渡りたいから渡るんだ。赤でも何でも構わない、行くんだ」という人ばかりいたとしたら、あっちで事故、こっちで事故になっちゃいますよね。みんな本心は止まりたくない。特に急いでいるときなんかは。でも、我慢する。その我慢が、結局は我が身を守ることに繋がっているんじゃないでしょうか。だから、人様の我慢を無視する行為は、天に唾することと同じなんですよね。
勿論、ルールや法律を守りさえすれば、すべてがうまくいくというものではないけど、基準があることで、とりあえず大混乱せずに済む。ま、中にはとんでもなく理不尽だったり、不要な法律もありますが。その場合は、みんなの一票で変えてゆくか、罰を覚悟して徹底的に反抗するかですね。少なくとも僕はそう思っています。
5.もしかしたら大人がだめだったのでは?
更に突き詰めていくと、結局、子どもだけの問題じゃないんですよ。むしろ、大人の問題。大人がだめだったんじゃないか、ということです。
大人もロクなことやってないです。最近では「暴走老人」なんていう言葉があるくらいで、相当長く大人をやっている人でも酷いことやってますから。人は歳をとっただけじゃ「大人」になれないということですかね。
自慢じゃないですが、僕も日常生活の中で、だめ大人になる場面があります。例えば、駐車違反とか。ここに停めちゃいけないと分かっていながら停めたのだから、切符切られても仕方ないんですよ。
スピード違反で捕まって「運が悪かった」なんて言うけど、運が悪いんじゃなくて、あなたが悪いだけ、という話。基本はそういうことです。まぁ、実際には必ずしも法定速度で交通の流れができている訳ではないし、だから程度問題という面もありますよね。でも、どれくらいズレてしまったのかという基準と自覚症状はないといけないかなと思います。ところが、メチャクチャな運転をして捕まった人ほど、逆ギレてしまう。大人がそんな状況だし、後に続く子どもがキレまくってもおかしくはない話です。
たぶん、そういうことが、戦後から少しずつ崩れて、現在に至っているような気がします。つまり、今の大人だけがだめということではなく、代々だめな大人になってしまっていた、ということです。きっと、代々の大人が犯してきた最大の罪は、次の世代に教えるべきことを、ちゃんと教えなかったことなのでは?
余談ですが、昔、カセットテープをダビングしたことがありませんか?ま、僕の仕事的にはダビングは困るんですが。最近はデジタルコピーなので、もっと困っています。それはさておき、テープのダビングはマスターからコピーしないと、いい音になりません。コピーのコピーを続けると劣化します。この状態が、段々だめ大人が増えた状況と同じです。ただ、劣化したものでも、まだ聴かせられるならマシです。ところが、今の大人たちは、聴かせたこともない。つまり、ものの善悪について語ることをやめてしまった訳ですね。こういう重要なことは、是非デジタル完全コピーで伝えていかなければ⋯。
だめ大人の割合が増えたとはいえ、まだまだ正常な感覚の持ち主も多い訳ですから、とにかく「だめ大人の連鎖」に、どこかで歯止めをかけないといけないってことになりますよね。
6.子どもは大人になるための準備期間
法律上、20歳未満は一応、子ども扱いですよね。人生80年とすると、子どもでいられる時期は、たかだか人生の4分の1。つまり後の4分の3は大人として生きていく訳ですから、どちらに人生のウエイトを置かなければいけないかというと、大人です。
少年法の議論もありますが、実際には、子ども扱いも中学くらいまで、ギリギリ高校生ですか。それまでは、すべて大人になるための準備期間だと思っています。だから、その時期に、転ぼうが擦りむこうが、それでいろんなことを学ぶ。「あの頃、あんな悪さをしたよな」と笑える程度なら、失敗しても許される執行猶予期間なのだと思います。勿論、子どもだから、どんな悪事でも許されるじゃないですよね。やはり程度問題です。
しかし、大人になったら問答無用ですよね。「少年A」じゃなくて、必ず名前が出て、世間から叩かれて、その後の人生は暗いです。やり直せると言う人もいますが、僕は稀だと思います。ホントは取り返しがつかない。仮に、やり直せたとしても、相当、過酷な努力が必要です。
ケガと同じで、若いうちのケガは治るんですよ。骨折しても、やっぱり治りが早い。だけど、大人になってからの骨折は、そう簡単に治らないですよ。下手したら死んでしまいます。だから逆説的に言うと「転ぶなら今のうちに転んでおきなさい」ということです。
子どもに対して「みなさんは、あっという間に大人になるんですよ。そのとき、社会人として、人として、知っておかなければならないことがたくさんあります」と。最初は脅かしでもいいんじゃないでしょうか。「それが分かっていないと、残りの人生60年、大変だよ。だから、今、覚えなさい」ということです。
鉄は熱いうちに打て。問題を先送りにすると、それは何倍ものトラブルになって、結局、我々大人に返ってくるものです。
7.せめて「注意できる」世の中に
まぁ、偉そうなことばかり言っていると「じゃあ、森さんは、傍若無人な若い連中の行為を見掛けたら注意するの?」と訊かれます。そんなときは、きっぱり「しません」と、答えます。だって、善悪の見境のない得体のしれない連中に注意したら、刺されちゃう可能性がありますから。情けないと言えば情けないですね。でも、だから、子どものうちに教えておかなければだめなんですよ。
僕は、ある程度歳のいった人間は、もういいやとあきらめました。既に固まった人たちに労力を注いで修正するのは面倒です。そういう人たちは、自分で気づいてもらうか、別の方々にお任せしたいと⋯。で、とりあえず基本を言い聞かせるなら、特に小学生までだな、ということです。この段階で、何が悪いことなのか、あるいは、ちゃんと自分の損得を考えなさいよ、そういうことを教える。
「もう僕ら大人はだめだから、君らにしっかりしてもらわないと。後は頼む。でも、今後は僕ら大人も反省して、せめて教えるべきことは教えるから、すまんが、頑張ってくれ」と。一種の開き直りですが、これでいいんですよ。
ほんの少しずつでも、世の中の座標軸が分かるようになれば、つまらないことをすると、人生、損しちゃうよ。そう教えれば、イマジネーションが働いて「これをやったらマズいな」と、ある程度ブレーキが利いて、我慢しようとなるハズです。そうすれば、いくらかでもマシな方向に、世の中全体が戻るのではないでしょうか。
完璧な善人なんて求めていません。せめて注意をされたら「うるせーな」くらいの悪態をついて立ち去るくらいの人でいいと思います。レベルは低いですが、とにかく最低限、ものの善悪が分かる若者を増やしてから、注意しようと思った訳です。そのために、ドッジが役立つのではないか。
8.先を生きる大人のために
ドッジを通じて、社会に出たとき、人として役に立つ基本的なことを身につける。つまり、社会を疑似体験できるような道具として、ドッジを活用することがよいのではないか?
世の中にはルールがあるよ。我慢も必要だし努力も。社会人として、人として、ちゃんと生きなきゃだめだよ。
考えているうちに、何やら壮大なコンセプトになってしまいました。文科省のプロジェクトチームに提出する企画みたいです。
とはいえ「教育的」とか「健全な精神の育成」などといったお題目や、言語明瞭なれど意味不明なスローガンを掲げる気はサラサラありませんでした。個人的に、そういう言葉が嫌いなので。ただし、便宜上、使うことはありますが⋯。
僕の考え方の中心は、まずは我が身を守るにはどうしたらよいか、今後、ラクな老後を過ごすにはどうしたらよいか、ということです。つまり、子どもたちのためというより、今現在、大人として生きる人たちのためなんです。子どもたちが頑張ってくれて、しっかりした大人になってくれないと、いつまで経っても、大人はラクができないということ。だから、僕らもちょっと頑張って、次の世代の面倒をみよう。面倒臭いけど、仕方ない。そういう考えの方が分かり易いと思うのですが⋯。
極論かもしれませんが、先に生まれた者は後から生まれた者を、自分たちの都合のいいように育てなければだめなんです。これは、権力者が自分たちの欲のために若者を戦場に送って死なせてしまうようなこととは違います。むしろ、ちゃんと生きてもらわねば困ります。「しっかり育てたから、今度はしっかり支えてね」ということです。世の中は順番なのだから⋯。
9.ドッジの語源は「逃げる・かわす」でも、マイナスをプラスに
さぁ、そこで、改めてドッジのことを考えると、こういう世の中だからこそ、ドッジは最適なのではないかと思ったんです。「ドッジ」の語源は「逃げる・かわす」という意味です。本来「逃げる・かわす」というのは卑怯だとかマイナスのイメージがありますが、ドッジは、かわすゲームだよっていう名前が、堂々とついている訳です。
普通は「立ち向かえ」というのがスポーツですよね。でも、ドッジは「上手く逃げた」って褒められる。こんなスポーツやゲームはなかなかありません。上手く逃げ通せればヒーローになってしまう。つまり、マイナスイメージさえ、プラスに転換できるんです。
野球やサッカー、その他のスポーツでも、理念とか理想を伝えられるかもしれませんが、例えば野球だったら、最低限キャッチボールができなきゃマズい。打球が飛んできたら逃げちゃう訳にはいかない。
「逃げてもいいんだ」そう思えれば、スポーツや体を動かす遊びから遠ざかっていた子たちも、ドッジなら入ってこられる。そういう意味合いでは非常に間口が広い。結果、仲間も友人も増えます。だから、ドッジなら、ルールに込めた思いを、より多くの子どもたちに、伝えることが可能です。
10.自主性・自己責任・向上心という三原則
しっかりした大人になって、世の中を支えてもらいましょう。とはいえ、脅かしてばかりではいけません。やはり前向きに、やる気を起こしてもらわねば。では、何が必要なのか。そこで、ルールをまとめる上で、三本の柱を置くことにしました。
難しく言うと「自主性・自己責任・向上心」です。これは「ひとりの人間としての自立」が目的です。感じて、考えて、実践してみる。自分のことは自分でやって、自分の行いには責任を持って、それでいて萎縮せず、積極的に人生を生きる。
こういうものを、ドッジを通じ養い、身につけてもらいたい。なので、協会役員のみならず、現場での指導者の方々も、そういうことを念頭に据えて、日々の指導を行ってもらいたいのです。
以前、監督やコーチが試合中、いちいち指示を出すことを禁止しようという動きがありました。申し合わせ事項として通知されましたが、改善されないのであれば、ラグビーのように、監督・コーチはスタンドに上げちゃうよと。なぜならば、目的は選手、つまり、子どもたちが、あくまで自分たちで考えてプレーしてほしいからです。
口を出したいという指導者の気持ちは分かります。しかし、もっと大きな観点から関わっていただきたい。指示待ちの癖がついた選手は、結局のところ、自立した人にはなれません。いちいち手助けして、ある意味、過保護になってしまえば、長い目で見れば、子どもたちのためにならない。
監督の役目は、練習の際に、チームの方針・考え方を注ぎ込み、試合が始まったら、集大成として、子どもたちに任せるべきです。
ドッジは、咄嗟の判断力が求められます。次のプレー、試合の流れも把握しなければなりません。人数の確認、残り時間、各々の役割。数分の中で、選手の成すべきことがたくさんあります。試合の勝敗も、自分たちが出した結果。それでも、自分たちで考え行動するから、どんなプレーにも価値があるんです。しかも、ドッジは団体スポーツなので、自分だけではプレーはできません。相手チームも含め、自分のチームのメンバーに対しても気配り、尊重が必要。まさにコートの中は「世の中の縮図」なのです。
特に指導者には、日頃から、ルールに込めた理念を、子どもたちに伝える役目を果たしていただきたいのです。
11.なぜ12人なの?
なぜ12人に決めたのか。実は、こればかりは適当に決めたんです。野球は9人だし、サッカー11人だし、違う数字がいいな。でも、ラグビーの15は多いな。内外野だから、偶数がいいな。じゃあ12にしよう。こんな感じでした。
そして、会議に臨みました。すると、猛反対を受けたんです。少子化が問題視され始めた頃だったので「子どもが、そんなに集まらないよ」と。で、ある人が「比較的、子どもが多い横浜でも、一学年でサッカーの11人が集まらないんだよね」という意見を言ったんです。
いい加減な提案だったはいえ、クリエーターの性質なんでしょうね、自分のプレゼンを否定されるのは面白くない訳です。最初は凹んでいたんですが「一学年で」という言葉のヒント。そのと
き閃きました。
「ちょっと待って。どうして一学年にこだわるの?」さぁ、そこから立て板に水のように思いついたことを喋る訳です。これが作家、嘘つきの凄いところで⋯。
「僕の子どもの頃は、地域のみんなと遊んでいた。お兄ちゃんも弟も関係なく遊んでいた。そこで上の人とつきあう、下の者を面倒みるってことを覚えた。ところが、みなさんの職場は、今どうですか?最近こういう愚痴を聞きますよ。上司とつきあえない、部下の考えが分からないとか、そういう人間が増えて困っているって。学年で線を引くみたいな考え方がはびこってしまったから、そういう状況になっているんじゃないですか?」
余談ですが、いつの頃からか、世代や学年単位で括ろうとすることが増えたような気がするんですね。例えば、毎年、新社会人を世代別に分類する。「人工芝タイプ」とか。野球でも「松坂世代」や「ハンカチ世代」のように。分類そのものが悪い訳ではありません。単なる呼び名なので⋯。
Jリーグの発足を控え、子どもの間では、野球を抜いて一番人気になったサッカー。
「ならば、そのサッカーよりもプラス1の12人でいきましょう。
12人集めるのが大変なのは分かる。だったら弟を引っ張ってきなさい、妹を引っ張ってきなさい。近所の子でもいい。そこで、お兄ちゃんやお姉ちゃんは妹や弟の面倒をみる。試合になれば、
弱い者を守らなければ勝てない。理由は何であれ、上の者は下の者を庇うことを覚える。で、下は庇ってもらえれば、上を慕うことを覚える。当然、摩擦や理不尽なことも起きますよ。いいことばっかりじゃない。摩擦も含めて、その時期に覚えないと。無菌状態で大人になり、就職して、ちょっと上司から小言言われたら「じゃあ辞めます」って。それじゃマズい。世の中に出たとき、社会人になったとき、人として、人とつきあっていく基礎を作るための12ということにしましょう」と、学年括りの弊害とコミュニケーション力を高めるためだと力説しました。すると、みなさん「そうだ、そうだ」となった訳です。しめしめですよ、クリエーターとしては⋯。
まぁ、ケガの功名だったんですが、結果的に、それがいい理由になって、以後「12人ってどうやって決めたんですか?」と訊かれたら、こういう理由ですと答えています。
ただ、少子化は顕著に現れている部分があるので、チーム結成が難しくなっています。だから「10人にしたらどうだろう?9人にしたらどうだろう?」という意見もあります。でも実は、10とか9とかに数を減らせばいいという問題ではなく「12」に込めた思いが分かっているかどうかが大事なポイントです。
また実際にチームを作り、大会などに出るとなると勝ち負けがある訳です。6年生を12人揃えて、しかも運動神経のいい子を揃えれば、勝つ可能性は高くなりますよね。でも、できれば、3年生、4年生、5年生も入っていて、人間関係を学んでいける環境を作りながら、チームを構成していただけると良いのではないかな、と僕は思っています。
年功序列を単純によしとしている訳ではありません。世の中は、性別も考え方も、強者弱者、いろんな年齢の人が集まって成立している。そういうことを感じてほしいんです。その中で、自分のポジション、役割というものを見出すことが肝心です。
12.Wパスファールの意味
味方の内野同士・外野同士のパス禁止。簡単に言えば、代わりに投げてもらっちゃだめ、というルールです。そう決めたのには、二つの理由があります。
ひとつは、いつも誰かを頼ってばかりじゃだめだということです。いくら逃げてもいいというゲームであっても、何かの弾みでボールを手にしてしまう場合があります。そのときは、ヒョロヒョロ球でも構わないから、自分で最後まで処理しようね、投げようね、ということなんです。
これを人生に置き換えると、上手く、いろんなものをかわして生きていければいいけど、好むと好まざるとに拘わらず、火の粉が我が身に降りかかってくる場合があるんですよ。そのとき「ハイ、僕の代わりに、火の粉をかぶって」という訳にはいかない。
子どものうちは、親掛かりで、いろんな危険から守ってもらえたりする訳ですが、大人になってまで、親掛かりでは困ります。つまり「甘ったれるな」ということ。基本的に、自分が抱えた問題は、自分でしか解決できない。
「自主性」や「自己責任」を追及するのであれば、自分で触ったボール、捕ったボールは、自分で投げようや、最後まで処理をしようや、というためのルールなんです。
13.本来あるべきリーダーの姿
ふたつ目の理由は、代わりに投げてもらうことを禁止することにより、リーダーの本来あるべき姿、正しいリーダーとか、もしくはアタッカー、エースを作りたかったんですね。
僕の子どもの頃でも「代わりに投げて」って、上手な子に渡すことがありました。確かに、それも作戦です。もっとも、JDBAルールでは禁止されているので、通用しませんが⋯。
どんなスポーツでも運動能力の優れた子がいて、ちょっと天狗になる訳です。「俺様のところにボールを持ってこい」みたいな話です。
だけど、世の中や職場でも同じですが、苦労せずに、おいしいところだけ持ってくような人は、仮に仕事ができても、ちょっと感じ悪い、と思いませんか?だけど、人一倍動いて、人一倍目配りが利いて、バリバリ仕事ができる人、これは尊敬に値する。
ドッジも同じです。ボールが転がったら率先して拾いに行く。それで相手を攻撃して、ポイントを稼ぐ。仲間を守って勝利に導く。そうなれば「あぁ、アイツは一生懸命、チームのために戦ってくれているよね」と、信頼が生まれる。
誤解されると困るんですが、つまりエースは「目立ちたかったら、自分から動け!」ということです。最初は動機が不純でも、やり続ければ本物になります。
チーム内での信頼関係ができれば、みんなが自然とエースにボールを集めます。ボールが集まるという現象としては同じことなのかもしれませんが、仲間に認められているということに大きな価値があるんです。大人になっても、社会で尊敬されるリーダーであってほしい。
14.コの字型のコートの意味は?
JDBAのコート。外野の形を見ていただくと、コの字型をしています。独特のコートです。これは長い歴史の中にもなかったもので、たぶんオリジナルといっていいでしょう。
「バックライン後方型と内野囲み型の中間を採用したんですね」と、言われることもありますが、そんな単純な発想はしません。
バックライン後方型の外野は、運動量の低減や戦術のバリエーションが少なくなるような気がしていたので、候補から外しました。
では、囲み型だとどうか。代わりに投げてもらうことを禁止しても、センターラインの角で、味方の内野と外野が手渡しできますよね。それじゃ意味がない。だから、そこに間をあける必要があった訳です。
「どんなにヒョロヒョロ球であったとしても5mは投げる努力をしようよ」っていうことを目指したかったんです。なので、5mあけさせてもらった。コの字型にもちゃんと意味があるんです。
余談ですが、初めて大会をやったとき、本部席に、お母さん方がダーッとやってきたんです「。苦情なんだろうなぁ。参ったなぁ」と思っていたら、いきなり泣き出して⋯。
どういうことかというと⋯。初めて、我が子がスポーツをしている姿を見て感動してしまったらしいんです。テレビゲームとか家庭に入り込んだ時代で、ゲームをしている後姿しか見たことがなかったので、我が子が外で遊ぶなんて考えもよらなかったと⋯。
息子さんが「ドッジボールの大会に出たい」と言ったとき、お母さんは「本当にできるの?運動やったことないじゃない」と答えたそうです。すると「やる」と。じゃあ、一生懸命やるんだったら、面倒みてあげるということで始めたらしいです。で、いざ始めてみたら、その子はボールを2、3mぐらいしか投げられなかったそうです。
子どもたちのソフトボールの遠投力が非常に落ちているそうです。これは全国的な平均ですが。まぁ「ボールが遠くに投げられたから人生にどう影響するの?」と、問われると困りますが⋯。
「自分でやると言った以上、がんばりなさい」と、お母さんが言うと、必死に練習したそうです。やがて5mになって、試合に出てくるときには10mのパスが通るようになった。
その話を聞いたときに「あっ、このルールを作ってよかったな」と思いました。人間は、具体的な目標を設定するから伸びるのであって「これくらいでいいや」とか「もうしなくていいや」となると、そこで終わり。5mあけて、本当によかったなと感じた瞬間でした。
努力をすれば報われると言う人もいますが、必ずしもそうだとは、僕は思っていません。それに、きっと誰もが努力なんて嫌いだろうし⋯。それでも、とにかくやってみなければ。自分の限界を知ることも必要。やるだけやったという気持ち。何より、できるようになれば、達成感を味わえます。達成感ほど、人の心を成長させるものはないと思っています。
15.積極性を促す外野のワンタッチ
外野のワンタッチ。外野のプレイヤーが触れてから、ボールがコート外に出た場合、ボールの支配権は、そのチームのものになるというルール。このルールは、一番議論されることで、未だに廃止論は根強いですね。
ひとつ決め事をすると、大体、マイナス部分とプラス部分が出ます。すべてがうまくいく方法はないということでしょうか。
僕はワンタッチをこう捉えました。遠く逸れたボールでも、一生懸命走ってワンタッチをすれば、マイボール、つまり自チームのボールにできる。味方の投球ミスをカバーできる。でも、これが理屈で「捕り損なって後ろに逸らした場合もワンタッチと認めるの?」という意見があります。
こういう場合、何が目的なのかが重要です。ミスをクローズアップするか、一生懸命走ってワンタッチするという積極性や努力をクローズアップするか。考え方の柱に向上心や積極性を謳っているのだから、僕はプラスに働く方を選択しました。一生懸命走るということを促したい。だから、ちょっと逸れようがあきらめずに走れと。
チームは小さな社会です。お互いのミスをカバーしあいながら生きることを、自然と学べるなら、それに越したことはない。
廃止すれば、もっとスピーディになるとか、ゲーム性が高まるとかいうことではなくて、我々が普及するルールの裏側には、こういう思いがあるんだということを、まずは子どもたちに伝えていただきたいんですね。
16.私たちが伝えるべきこと
色々な会議で、僕は「我々は何を普及していくんだ?何を伝えていくんだ?」と、わざと質問することがあります。すると「何、バカなこと言ってんの?ドッジボールに決まってるじゃないですか」と、答えが返ってきます。
そりゃそうなんですよ。だけど、ドッジそのものじゃないんです。ルールに込めた理想であったり、理念を普及してほしいのです。その道具として、ドッジが活かせればいいんです。ドッジのルールを作る目的で取りかかった作業ですが、結局はドッジのルールだけにとどまらなかった。
ルールや大会も、我々の活動のすべては、子どもたちが、やがて成長し、社会人として、人として、生きていくために必要な要素を体験する場を提供することなんです。
そして、大人にとって、安全で楽しい社会は、子どもにとってもいい社会なんです。「ああ、早く大人になりてぇ」そう思わせないといけないんです。この当たり前の繰り返しが、世の中にとって、個人にとっても、大切なことだと思っています。
改めて言いますが、そのために、この我々が普及するドッジは最適なのだと確信しています。